「意外か、それとも不覚か・・」帰途につく浪人生、阿久比 周(あぐい・あまね)の脳裏に、そんな想いと交錯が大きく渦巻く。「まさか、己が先に手出ししたとは言え、その相手の少女に、イカされる事になろうとは・・」下半身は、気が抜けた様に力が入らず、歩みさえ怪しさが付き纏った。
花井家から最寄の地下鉄駅入口で、やはり帰宅中の、宙(そら)の姉で、佐分利学院の講師 結(ゆい)と遭遇した時でさえ、すぐには気付かなかった程だ。「あら、阿久比君じゃないの」 「ん・・ああ、は・・花井先生、今晩は」驚いた、と言うより、狼狽した彼は、やっとの思いで挨拶を返す。
「珍しいわね。こんな方へ、何か用があったのかしら?」 「ええ、ちょっとバイト先に頼まれて、この近くへ届け物に行って来たんです」 「そうなんだ。もう分ってるだろうけど、受験が近いんだから、そっちを優先してね」 「・・ですね。済みません。そこは気をつけないとですね」いつの間にやら、花井家の方へ、並んで歩く二人であった。
結は言った。「ご免ね。つき合わせちゃった様で」 「いいえ、ちょっと遅い時間ですから、お見送りできて良かったんじゃと・・」 「そうだね、有難う。又これから勉強でしょ。頑張って」 「はい、有難うございます。じゃ、これから取りかかります。今日もお疲れ様でした」 「うんうん。又明日ね!」 「はい、失礼します!」再び戻った、花井家の前で、解散。
居所への帰りは、9pm近く。夕方の鮮烈な体験から覚めるには、少し時間を要した。シャワーを使い、勉強や課題に集中できる様になったのは、日付が変わる近く。1:30am頃までこなして、就寝。
12月に入り、周の受験準備も、追い込み段階に入った。最終調整に打ち込む為、彼は夜間の飲食店アルバイトを、受験が終わるまで抜ける事にした。事前に相談していた店主も、その事を理解してくれ「お前は大事な戦力だ。良い知らせを聞いた暁には、必ず戻って来いよ」と快諾してくれた。「有難うございます。頑張って来ます!」周も、こう返し。お世辞かもだが、嬉しい送り出しを受けた。
その最初の週だったろうか、火曜午後の教科を終え、暫く自習して帰ろうとした、周のスマート・ホンにLINE着信。暫く合間のあった、妙(たえ)からだ。
「阿久比君、元気?」 周「はい、お蔭様で」と返し。妙「急で悪いんだけど、この後会えない?」 「いいですよ」 「好い時間だから、又ご飯食べようよ」 「はい、有難うございます」 「今、学院なの?」 「ええ、今日の教科が終わって、ちょっと自習しようかなって思ってたとこでして」 「分った。じゃ、一時間後に、この前と同じホテルのロビーに居てくれるかな?少しの間、見て欲しい事とかもあるしね」 「了解しました。宜しくお願いします!」 「うんうん。じゃ、後で!」交信終了。宙にも言われた事だが、周は、彼女たちとの交信に、無料で通信できるアプリ・ソフト「LINE」の登録を勧められ、使う様になっていた。
小一時間の自習を終えた6pm頃、件のホテル・ロビーで妙と待ち合わせ。仕事の途中か、この日の妙は、ロング・パンツのビジネス・スーツに半コートの出で立ち。周は、茶系セーターに上着、冬用綿パンを着用だ。
「今晩は。宜しくお願いします」 「こちらこそ、準備は進んでる?」 「ええ、お蔭で徐々に・・ですか」馴染み所へ徒歩で移動しながら、二人は近況報告。この夜は、居酒屋へ。お通しの後、天ぷらや刺身が数種、海草の小鉢にお茶漬け、果物・・などなど。妙は冷酒を少々、周は勿論酒気を避け、コーラを。
妙は言った。「食べながら話しましょう。実はね、今年一杯、夕方から夜早くの間、君に、平日二時間位、ウチの事務所に詰めて欲しいのよ。勿論、お仕事はそんなに忙しくない。ただ、あたしも出たり入ったりだから、電話にメール番と、情報資料の整理とかを、少し頼みたいの。勿論、勉強時間は心配ない。合間に自習だってできるわ。お夕飯は、出前を取ったげるから、そっちも安心して良いわよ」 周「そうですか、有難うございます。そう言う事なら、謹んでお受けします」と返し、この招聘(しょうへい)に応じる事に。
妙は続ける。「君は、夜の教科は出なくて良かったわね」 周「はい。概ね、午前午後だけですから、大体4pmには終わります。夕方や夜の出席が必要な時は、事前に分りますから、必ずお知らせする様にします」 「うんうん。そうして欲しいわ。時間は大体5:30pmから7:30の間位。30分位遅くなる事もあるけどね」 「分りました。いつから出られる様にしましょうか?」 「明日からお願い。 土・日曜日はお休みね」 「はい。それじゃ、宜しくお願いします。頑張りますので!」 「うんうん。受験準備を優先すれば良いからね。じゃ、この後、事務所を見てもらおうかしら」 「了解しました。あの、服装はどうしましょう?」 「そうねえ。ネクタイはなしで良いから、ジャケットに、上シャツは柄でない方が好いわ。アンダーもね。靴は、できたら革で」 「はい、気をつけて用意します」
7:30pm頃、食事を終えると、二人は、再び徒歩で妙の会社事務所へ。他のテナントも入る、10F建て自社ビルの夜間を守る、保安課の係員に挨拶と面通しの後、上階にある情報関連企業の本社エリアへ。この夜は、全社員が退出していた。
周を招じ入れた妙、フロアを案内しながら「ここが、君の使う机(つくえ)とPCね。慣れたら、電話も出てもらうし、Eメールも、返事ができる所はお願いするから。左側の引き出しには、必要なら勉強用具(ツール)を入れても良い。後、今来た1Fのロッカーも、一人分使える様にするわ」 「有難うございます!」 「それとね、前に学院にいた、伊野さんって、知ってるでしょう」 「はい」 「あの女性(ひと)が、君の隣の席だからね」 「そうですか。伊野初美先生・・懐かしいですね。まあ、つい去年夏までご一緒だったけど」 「又、彼女に色々教えてもらうと良いわ」 「・・ですね。そうします」 「もう一つ、見ておいて欲しいの」 「はい、何でしょう?」
「それはね・・」妙はこう言い、自身が使う、社長室へ周を招じ入れる。夜景も臨める、角部屋だ。彼は「ここは社長室ですから、当然勝手に出入りしちゃいけませんよね」と言い。妙「勿論そうなんだけど、あたしの席の後ろの仕切に扉があるでしょ。開けてみて」 「はい」促されて、周が扉を開ける。その先にあったのは・・
恰もカジュアル・ホテルの一室の様な設(しつら)えであった。少し小ぶりの机(ライティング・デスク)に、応接セットが二人分、セミ・ダブル位だろうか、広めのベッドとAV装置。更に、もう一つのドアの向うには、洗面台と洋式トイレ、ユニット・バスにシャワーが備わる。
「ああ、泊まり込みになっても良い様に設けられてるんですね。分ります」周は、こう反応す。「そうなの。例えば2、3月頃の年度末とか、今みたいな年の瀬は結構忙しくて、夜遅くなったりするのよね。だから、ここに泊まれる様な用意がしてある訳。勿論、あたし専用って訳じゃない。他の社員だって使って良いんだけど、専ら女子用ね。男性たちは、主に周りのビジホやカプセルに行くわね」 「そうなんだ。これなら遅くまで仕事でも、大丈夫ですね。お手入れとかは、どうされてるんですか?」 「うん。好い質問ね。使う日は決まってるから、次の日に、必ず下の警備関連会社の人が、掃除に入ってくれるの。全然使わない時も、週一、二度は入ってもらって、夜具とかを入れ替えてるわね」 「ああ、それ、好いですね。いつも、ホテル並みに快適なんだ」
本気で感心しながら見て歩く周だったが、この「隠し部屋」を見学した時、少し思い当たるものがあった。それは、三年前、学院の養護室で見た、鮮やかな思い出の場所の事だった。養護主任の女医 本荘小町(ほんじょう・こまち)に招き導かれ、初めて立ち入った、養護室の隠し部屋・・それは、この社長室裏の部屋と、酷似した造りだったのである。
「社長・・」周は言った。「社長も好いけど、夜はやめようよ。この前みたいに『先生』って言ってくれないかな?」妙はそう返す。「どうも済みません。先生・・」周も応じ。「いやいや、気にしなくていいよ。君は、多分、あの時の事を思い出してるんでしょう」 周「そうです・・」と返す。妙「ねえ周君」 周「はい・・」 「嫌ならいいけど、良かったら、その時の話、あたしにしてくれるかな?」 「いいですよ。少しなら・・」二人、応接セットに着き、周は、ゆっくり語り始めた。
(つづく 本稿はフィクションであります)
今回の人物壁紙 橋本ありな
久石 譲さんの今回楽曲「冬の夢」下記タイトルです
Fuyu No yume