レディオ・アンカーの幻影 第1話「静聴」
- 2019/10/07
- 21:57
「ああ、やっと・・」その日も遅めとなった勤務から帰り、夕食や入浴、翌日の仕事の段取りを区切って一息ついた男が、寝る前の一時 傍らの小型音響(オーディオ)装置のスイッチを入れ、机に向かう。応接ソファの方が座り心地は柔らかいが、平日の夜は 何か堅めの事務用椅子の方が寛げる気がするのであった。
男の名は前嶋 望(まえじま・のぞむ)。N市内にも拠点を置く、首都圏が本拠の産業向け電子部品卸の専門商社に勤める。勤務地は東郊だが、副都心の金盛公園にも近い 某高層住宅の 2LDKに一人で住んでいた。もう齢 40を過ぎ「不惑」の頃のはずだが、かつて恋愛に敗れてから ずっと独身を通していた。かといって、全く女性に関心がない訳でもなかったのだが。
彼がこれから聴こうとしているのが、公共放送 N局の人気深夜番組「ラジオ深夜館」だ。平成の初めでもあった 1990年代初頭に始まり、その頃以来の聴取者(リスナー)の端くれでもあったのだが、気がつけば早 四半世紀を超える年輪を重ねていた。「早いな・・」と彼自身も感じている所だ。
番組の進行を担う 俗にアンカーと呼ばれる司会担当も もう三代位は入れ替わったか。メンバー構成は男女がほぼ半々。年代は前嶋と同じ 40歳前後から、一線を退く時期の 70歳位まで幅広い。N局の HPにも、一旦退いたヴェテラン司会者が、嘱託の様な立場で番組を担う事もある旨が載っていたのを思い出した。
番組は 11pm過ぎにスタート。序盤は国内の諸々の話題で、勿論悲しいニュースは取り上げない。次いで海外在住邦人の各位の今を伝える電話取材。平成の初期 番組が始まった当初は 翌 1amまでの二時間弱の番組だった記憶があった。それから多くの聴衆の希望もあり、5amまでの長時間ロングラン番組へと拡張されたのではなかったか。
1amを過ぎると、暫くは文学や芸能の時間となる。前嶋はこの時間帯、特に落語を取り上げる「落語百選」を好んで聴いた。次の 2Hは、国内外の音楽特集。4amからラスト 1Hは、各界人物へのインタヴュー放送が組まれるが 前嶋、この時間帯は眠っている事が多かった。
11pmの正時ニュースに次いで、緩やかなオープニング楽曲に乗り「今晩は」の挨拶で番組が始まる。まあ序盤は、これも好んで視る民放系経済ニュース番組と重なるので、余り気を入れて聴く訳ではないが、それでも番組が流れると、苛立つ時も少しは気が落ち着く彼であった。
時は 4月半ば近く。見事さを誇った金盛公園の桜も終わり、更に記せば「平成」という時代も終わろうとしていた。時の天皇明仁(あきひと)が、次代天皇たる皇太子へ向け譲位を宣言、それが間もなく実行に移されようとしていたのだ。「あれは結局・・」日頃嗜む並級スコッチ・ウィスキー「ティーチャーズ」のロックと冷水を交互に嗜みながら、彼は一人ごちた。「平成最後の桜だったんだな・・」
数年前、大規模な枝打ちに遭って見栄えがしなくなっていた金盛公園の桜も、最近はようやく枝ぶりが戻り、再び花も観られる様になってきていた。勤務先の関係者達もそれが分っていて、休業となる見頃の土曜日などはほぼ一年おきに勤務先ぐるみでの花見が催された。その折の幹事は、勿論彼である。夜桜見物の折などは、若手を含む数人の男子社員が泊まりに訪れる事もしばしばだった。
今は勿論一人。この夜も TVの経済ニュース番組は、人気司会者・大江麻里子の魅力ある進行で、ゲストの有識者との快い掛け合いを伴って進んで行く。ニンマリと画面を眺めつつも、片耳はオーディオの方へ向ける事を この男は忘れなかった。TV番組開始に遅れる事約 10分、この夜の「ラジオ深夜館」もスタートした。
「今晩は。今夜もラジオ深夜館の時間が参りました」聴いた前嶋は思わず「?」の想いを抱いた。想えば 4月は TV・ラジオの大きな番組改編が行われる時期。各番組の司会進行など、出演者達の異動も盛んに行われる時期だ。「・・だよな。担当の人が何人か異動しても、驚くには当たらんわ・・」と前嶋も思ったものだ。が、しかし・・
「今夜の担当は私(わたくし)、邑井由香利(むらい・ゆかり)と申します。今月からの担当、今夜が最初の放送になります。これからどうか、宜しくお願い致します」聞き慣れない女性アンカーによる、僅かに低めの落ち着いた美声。「うん、何か好いな・・」聴いた前嶋は、直ぐにそう思った。
初回の放送だけに、まだぎこちなさが感じられるのは仕方がないかも知れない。だがそれが、少しは番組を聴き込んだ男の耳には心地良く響いたのも事実だった。番組を続けて聴いてみると、由香利は毎月第二、第四木曜日の担当である事が分かった。「本当は・・」男は想った。「同じ週の金曜夜なら、翌日休みだからもっと具合が良いんだが、そう都合良くも行かんか。ま、仕方がないかな。魅惑の女声が聴けるだけでも まぁ良いか・・」
約 1H後。その夜の TV経済ニュース番組が終わると、本腰で「ラジオ深夜館」を聴きに入る。一言一句を、まるで暗闇を慎重に歩んで行く様にたどたどしささえ感じさせる由香利の語りは、反ってそそられる何かを抱かせる様な、不思議な魅力があった。全ての男がそう感じる訳ではないだろうが、少なくとも前嶋の耳にはそう届いたのも事実だった。「これは・・」彼は思った。「邑井アンカーの声と語り、何かそそられるモノがあるわ。こりゃ気をつけんと、ちと危ない・・かな?」
(つづく 本稿はフィクションであります)
今回の人物壁紙 波多野結衣
今回の音楽リンクは、トランペット奏者・日野皓正(ひの・てるまさ)さんの楽曲をリンクして参ります。まずは「寿歌(ほぎうた)」
Hogiuta