レディオ・アンカーの幻影 第3話「機会」
- 2019/10/14
- 14:03
「のぞみさん、ちょっといい?」例のラジオ放送を聴き、芳しからぬ昂奮をして果てた翌日の昼間、N市東郊の職場で午前の仕事を区切り、近くの専門店で入手した昼食の弁当を自席で開こうとした前嶋の所へ、経理関係を担う女子社員・青井 理乃(あおい・りの)が寄って来た。「1pmからで良いからさ、ちょっと上階の事務所へ顔出してくれる?話があるんよ」 「あぁ話ね。分かりやした・・」一応視線は合わせるも、生返事の彼であった。
前嶋の下の名が「望(のぞむ)」である事は前述した。が、しかし・・職場にあっては、彼が「緩い」ながらも鉄道愛好者(ファン)たる事を認めた為に、職場内はほぼ全部、そして広く社内的にも 東海道・山陽新幹線の速達列車の愛称たる「のぞみ」と揶揄されていたのだ。そうそう多い訳ではないが、仕事内容で芳しくない所ある折に叱責を賜る場合は「のぞみ薄!」とやられる訳で、これは上部の取締り役衆にも知られていた。勿論良からぬ愛称につき、早めの返上が前嶋の一目標でもあったのだが。
世間で「のり弁」の名で親しまれる質素な弁当と ペット・ボトルの日本茶で昼食を済ませ、一呼吸おいた前嶋は、指示された 1pm少し前に 倉庫メインの物流ビル上階の事務所を訪ねる。所長、業務部長など現場トップらの拠点だ。ノックに続き招じ入れる 齢の頃二十代終わりの理乃は勿論笑顔。濃色のスーツ上下と、ほぼ揃いの低めのパンプス姿が好ましかった。
話としては、前嶋が担当の一取引先の売掛金を巡っての軽いレベルのもので、手形決済予定の所が注意を要したが、期日は遅れておらず「まぁ、予定通り入れて頂ける様 お願いね」という調子。一時は「何か大きな問題でも・・」と表情を曇らせた前嶋にも、笑顔が戻る。経営が大変な中小企業や個人店舗も多いだけに、売掛金や手形の取り扱いの事共は、前嶋の勤務先でも大きな課題となっていたのだ。
「そいじゃ、午後の用事もあるんで、これで失礼します・・」と事務所を辞そうとする前嶋に「あっ、そうそう!のぞみさん、もう少しだけいい?」普段時間にうるさい理乃が、珍しくも声をかけて来た。「ん、何だろ?」頷きながらも、その一方で訝る想いが前嶋の胸中に去来した。「はい、何でしょう?」低い返事で応じる彼に、理乃は「ここじゃ何だから、もう一度入って」と促した。
階下の現業部門には、事務所からの呼び出しで暫く抜ける旨 了解を得ている。事務所内には勿論、幹部を含め 10人近い社員が仕事に取り組むも、理乃の隣席は空いていた。着席を促され、落ち着くと「これ、お仕事とは直ぐ関係ないから、大声じゃ言えないんだけど」と切り出した。
理乃は続けた。「貴方がほぼ毎晩『ラジオ深夜館』を聴かれてるらしい事は聞いてるわ」 対する前嶋「そうですね。去年かな・・確か理乃さんがここへ移られた時の歓迎会で自分、そんな事を申した様なのを覚えてます」 理乃「・・でしょう。それでね・・」 「はい・・」前嶋の反応を確かめると、理乃は周囲に怪しまれぬ様 そっと一膝進めて来た。
「その『ラジオ深夜館』なんだけど、今週の土曜に隣町の O市内某所で『深夜館リスナーの集い』があるのは知ってるわね」 「そうそう、知ってますよ。自分も余程申し込もうと思ったんだけど、同好の連れが不都合で、今回は諦めたんです」 「あぁ、そう。丁度良いかも知れないわね」 「丁度良い・・か。何でしょう」 「それはね・・」ここまで続けると、理乃は更に声を潜めた。
「その『集い』の事なんだけどさ。あたし、知り合いに N局の関係がいて、その繋がりで当日入場できる訳。知ってるだろうけど、あたしを含めて二人までね。それでこちらも、予定してた友達の都合がつかなくなって残念!て所なの」 「ちょっと待って下さい。・・て事は、その空きがもしかして自分に回るって事ですか?」 「そうそう・・」 「なる程、そいつは有難い・・」前嶋は、理乃に向け頭を下げた。
「それでね・・」前嶋の謝意を確かめて、理乃が言った。「来場されるアンカーが、石塚典輔(いしづか・のりすけ)さんと森嶋美優(もりしま・みゆ)さんの予定だったんだけど、急に都合がつかなくなったとかで、女性アンカーさんが急所変更されるんですと」 「ほほう!それでそれで?」 「代わりに来られるのが、邑井由香利っていう、新しい方だって。この前最初の放送だったんだけど、貴方聴いてた?」
「あぁ、はい。確かにね・・」由香利の名を聞いた前嶋は、曖昧に返すのがやっとだった。ただ「聴いた」レベルではない。由香利の語りを聴く内に良からぬ昂奮をしてしまい、自慰にまで及んでしまった事実を、まさか理乃に語る訳にも行くまいて。一呼吸おいた彼は「邑井さんの語りは、いかにも新しい感じが良いですね。語調にもメリハリがあるし、それでいて棘みたいなものもないしさ・・」努めて、当たり障りのない返事を心がけたつもりだった。
「なら良いね・・」少し堅めだった、理乃に笑顔が戻った。普段は眼鏡を着用し、堅めのイメージが先行する彼女だったが、笑う感じは清新で、多くから好感を得ていた。高くもなく低くもない 155cm位の身長と恐らくは50kg弱の体重。身体のラインは日本人の女によくある地味な感じで、胸周りも Cカップ位だろう。「その方」の浮いた話もまだない様で、多くの男子社員同様、前嶋も彼女とは ひとつ距離を置いて接していた。
もう一つ「これは可能性の話だけど」と理乃は低めに続けた。「はい、聞きましょう」前嶋が応じると「上手くするとね、アンカーの方達と直にお話できる機会があるかもよ」 「!」前嶋は一瞬、動揺した。つまり、短いながらも由香利と話せる機会があるかも知れぬという事だ。今はそれは隠した方が良い。理乃もまだ、気づいていない様だ。
「じゃあ今日は・・」 15分程話しただろうか。そろそろ現場へ戻らねばと感じた前嶋は「青井さん、有難うございます。その話、謹んでお受けしますよ」の返事。理乃は「こちらこそ感謝です。そいじゃ、当日は宜しくね。午後からだから、お昼(ランチ)から一緒かな」 「ああ、良いね。そうしましょう」 「じゃあ、待ち合わせの件は 又後で・・」 「分かりました。宜しくです・・」簡潔な挨拶を残し、前嶋は事務所を辞す。
その日の業務はやや手間取り、遅めの 7pm頃終わったのだが、前嶋の気分は良かった。「そうか、そりゃ楽しみだ・・」職場の同僚、理乃が一緒とはいえ、気になるアンカー・由香利との会話が叶うかも知れないのだ。或いはそこで、彼女へのコンタクトの方途が掴めるかも知れぬ。勿論、個人面のそれだ。「もしもだが・・」彼は思った。直に話ができるなら、名刺があればまず預かりたいものだ。ついでに携帯のメルアドも。おおっと・・これは無理かも知れんが・・」居所への帰途、市営地下鉄の車中で 良からぬものを含む想像がいくつか頭を駆け巡った。勿論「理乃さん、有難と・・」の想いも抜け目なく・・
(つづく 本稿はフィクションであります)
今回の人物壁紙 めぐり
日野皓正さんの今回楽曲「ヒノズ・レゲ(Hino's Reggae)」下記タイトルです。
Hino's Reggae