この雨は こんな風に聴こえる 第17話「喚起」
- 2020/08/19
- 19:26
黒木はこれまで、殆ど深酒をした事がない。似た様な体験は、大学入学に際し 所属サークルの新歓会でしこたま飲まされる洗礼を受けた事と、以前の勤務先の同じく新歓行事で似た様な状況を経た その二回だけだと言って良かった。大学期から通し 日付を跨いでまで飲み歩く知友もいなかったし、仲良くなった女とも、そう取り乱す様な飲み方はした覚えがなかった。大体、余り酒気が進むと 肝心の性欲が減退してしまう事も一因だった。それはさておき・・
「確かに、困るのは事実だな・・」勘定を済ませた馴染みの店から、先日も行った JR東海道線の下り貨物便を撮影の後 一旦居所へと戻り、札入れを改めた黒木はそう呟いた。一緒に持つ小銭入れを含め、二万円台後半位の現金を持ち歩くのが常だったが、札入れからは万札の二枚だけが消えており、千円札数枚と硬貨、それにクレカと IC切符「マナカ」他は無事だった。
「疑いたくはないが・・」彼は続けた。「寝込んでて気づかなかったが、麗海(かのじょ)がそうした間に目を覚まして、俺の札入れから抜き取ったって事だろう。これが野郎の仕業なら 怒り心頭だが、ちょっと待て・・」そして 「一度、面白(おもろ)いやり方で検証みたいな事やって、それで埒(らち)が空かなかったら警察に被害を届けるとかを考えても良いな。その辺の具体的なとこは まぁ良い。追って考えて実行すりゃ良い事さ・・」そう想いを巡らせながら、伯父の事務所へ出勤すべく 正装に着替えた。
「お早うございます。遅出にして下さり感謝です!」出社すると、まず黒木は伯父にそう挨拶した。「あぁ、遅よう。お前、午後一件下見の案内してもらいたいんだが、就活の予定とかはどうなの?」 「あぁ、物件案内 OKですよ。今日は就活で出ないとってとこありませんので」 「分かった。じゃ、宜しくな。雨も一旦上がった事だしさ。車は昨日乗ってったのでって事で・・」 「分かりました。じゃぁ食事終わったら、行ってきます!」
昼食後の 1pm過ぎから市内西郊の現地まで、顧客を案内して戻ると もう夕方前。いつもの事だが、伯父の事務所の業務は原則 5:30pmまで。「お疲れ様でした!」 「はい、ご苦労さん!」居所へと引き揚げ、正装からトレーナー上下の部屋着に着替えると、黒木は SNSでメッセージを送った。
彼には弟がいる。名は存(たつる)。一応広告デザインとかを手掛ける中堅企業の社員だ。黒木兄弟の名の由来は、出版関連の仕事にある父・雅(まさし)が、その思考に共感していた昭和期の代表的保守系文学者・福田恆存(ふくだ・つねあり)の下の名を頂いたものだったのである。兄の黒木は、己の名が旧字体なのを幼時は不思議に思っていた。小学校中学年の頃、父にその経緯を訊き、何となく納得したのが曖昧な記憶として残っている所だ。それは良いとして・・
黒木「存(タツ)か?俺だ」 存「おー、兄者。時間だけは余裕がありそうな。進路は決まったのかね?」 「大きなお世話だ。就活はちゃんとやってるからよ。ま 今日は一日、伯父貴の応援だったが」 「まぁ、やる事があるだけ良いやんか。・・で、この時間に連絡って事は何かい?カネにでも困ったのかい?」 「その心配はない。ただ お前が好都合なら、ちと協力して欲しい事があってな」「ほう、カネの事抜きで協力をってか?」 「そうだ・・」 「まぁ 用件によりけりだが、兄者って事で、聞くだけなら聞こう」
黒木「有難よ。所でお前、今夜 飯はまだなの?」 存「うん。まだよ。何なら金盛界隈にも知ってる店あるから、そこ行こか・・」 「良いだろう。時間はいつ頃が良い?」 「今から 1H後位でどう?」 「OK。それで決まりだ」 時に 6pm代半ば。待ち合わせは 7:30pmに金盛副都心の某所に決まった。JR金盛駅近くの 存馴染みの落ち着いたインド料理店でカレー料理とビールなどを嗜みながら、兄弟は話を進めた。黒木はいつもの上シャツにジーンズ、ウォーキングの普段通りに対し、存の方は所謂「ホスト」が着そうな洒落たウェアの上下に夏向きの短靴姿である。身長は 存の方が数cm高く、ホスト風衣装は一応決まった感じではある。
「まぁ、恥ずかしい話だが・・」酒食が半ばにきた頃、黒木は切り出した。「ほぅ、恥ずかしいとは良さげな話かね?どうだろう。美女と一夜を共にできたとか・・」 「お前も好いとこを突くなぁ。ほぼその通りやよ」 「そうかぁ。そりゃおめでたいな。俺ぁ又 兄者は三十路になっても女性と縁がないんかなって・・あぁ、ご免ね。これ、余計な心配だからさ・・」 「良い、良い。そんな事ぁ分ってる。で、そういう仲になったのは良いんだが」 「何や Yes But・・みたいになってきたな。何があった?」
黒木は一瞬 表情を硬くして、又緩めた。そして「所謂『H』まで行ったは良いんだが、朝気がつくと、カネ目のものがなくなってた訳よ。まぁ一部だけどな」 存「アハハハ、やっぱり兄者はドジだな。それ何か『エロ系』の週刊誌に載っていそうなストーリーやんか。で、幾らやられた?」 「ズバリ、二万円・・」 「ハハ、そうか。そりゃ今、安定収入のない兄者には堪(こた)えるだろう。もしかして彼女、やらしてやったから当然位の気でいたりするのではないかな?」
黒木「まぁちょっと待て。まだそれで決まった訳じゃないからさ。これで流れから行けば、俺が警察に被害届を出すパターンだが、その前にちょっと面白い検証事をしようと思う。それにお前の協力が要るって事でさ・・」 「協力か。物事によりけりも事実だが、まぁ良い。兄者って事で、話は聞こう」
「有難と。それじゃ・・」と黒木が始めた。「つまり、その女性(ひと)とお前が一夜を共にして、その合間にお前の現金(カネ)が消えるかどうかを確かめたいって事でさ。どうしても嫌ならなかった事にして、警察に被害届を出す様にするが、どうする?」 「ちょっとだけ、時間をくれるか・・?」
存は一旦沈黙すると、暫くおいて「中々面白そうだな。俺、協力しても良いよ。ただ、二つばかり訊きたい」 黒木「良いだろう。答えるよ」 「それはね。まず第一に、もし俺のカネが消えて戻らなかった場合、就活が叶ってからで良いから兄者が穴埋めしてくれるかってとこが一つ」 「勿論!そうなりゃ 俺の進路が決まり次第、必ずする。そりゃ約束だ!」 「OK、信じよう。で、もう一つだが、俺は必ずその美女と『H』できるのか?」
その質問、黒木は一瞬返答に困った。「絶対にそうなり得る」確証はない。「ちょっと待ってくれ・・」とりあえずそう答え、返事を整理するのに若干の時間を要した。少しおいて「絶対に OKとは言えんが・・」と前置きの上 こう言った。「お前の話術なら、相当に可能性は高い。有望だ」 存「ハハ・・そうか。気遣ってくれたみたいで有難う。で、兄者は又 その女性(ひと)と会う約束とかあるの?」
黒木「その事ぞ。今朝別れ際、来週の土曜辺りに何とか言ってたな。まぁ良い。お前が好都合なら、俺から話しとく。一度考えて、今度の週明け辺りに返事をくれても良いけどな」 「そうだね。魅力ある話だけど、何でも即決ってのも能がなさげで嫌だしさ。それ位の間をおくのが良いだろうね。所でその女性(ひと)、お名前は何て云われるの?」 「あぁ、彼女の御名(みな)は麗海(れいみ)と言うんだ。背丈は160cm代前半位で、スレンダーなブルネットの美脚美女。タレントだと、そう・・TVでよく見かける『M』とか『Y』みたいかな・・」
存「いやそりゃ凄いな!兄者にしちゃ出来過ぎじゃないか。こりゃ俺も、何やら期待が持てそうな気がしてきたわ」 黒木「まぁそしたら、抜かりなくやってくれや。正直な、彼女はちと軽いとこがあるから、お前の持って行き方次第では『核心の行動』も不可能じゃないだろ。まぁ健闘を祈るわ!」 「そうか有難と。おおっと・・!」 「うん、何だろ?」 「本題のさ、彼女がカネを抜き取るか否かを見極めんといかんな」 「そうそう、今度の本当の目的は、それさ・・」 「分かった。じゃあ多分 OKだが、週明けまでに返事って事で・・」 「はい、宜しくです・・」 食事が区切られるとほぼ同時に、存の黒木への検証協力が、事実上決まった。
(つづく 本稿はフィクションであります)
今回の人物壁紙 紗倉まな
今回の「音」リンク 「アフター・ザ・レイン(After The Rain)」 by Boney James (下記タイトルです)
After The Rain